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私の人生史。アロマに出会うべくして出会った人生。

今回は私のこれまでの人生について書いてみたいと思います。
「全ては必然」。振り返れば、どれも今の自分にちゃんとつながっているんだなと思いました。

誕生〜小学校に上がるまで

1990年12月1日0時37分。島根県浜田市の病院で、私は産声を上げました。
(姉も弟も12月生まれで、私も日付変わって37分というギリギリのところで12月生まれの仲間入りとなりました)

仲の良い家族で、小さい頃からいろいろな経験をさせてもらい、新しいことに挑戦するときの度胸は両親に育ててもらいました。

知的好奇心も兄弟の中で一番強く、幼少期はどちらかというとお調子者。周りの人を楽しませたい、という思いは物心ついた頃からあった気がします。

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引っ込み思案爆発!妄想爆発!の小学校低学年

小学校に上がるときに父の転勤で島根県から広島に移り、広島の小学校へ入学した私。周りは幼稚園や保育園からの仲良しばかりで、なかなか馴染めず、同じ団地の子以外の子とは全くしゃべることが出来ず。

一方、ファンタジーな世界が大好きだったので、同じ団地の子たちと、(アニメのキャラとかでなく)オリジナルで創作したキャラ設定の世界で遊んでいました。

転校。そしていじめ。
読書力と絵描きスキルを磨いた小学校高学年

うちの父は、家族との時間を何よりも大切にする人でした。家族との時間を優先した父は、私が小学3年生になる時山口県岩国市(両親ともに出身地)に一軒家を建て、その後は転勤なく。

両親、特に父の、家族と過ごす時間を一番大切にしたい。という心は今の私の思いでもあります。

瀬戸大橋1997.7.27

少し前置きが長くなりましたが、家として長く住むことになった山口県岩国市。
私にとってはやはりここが故郷。

ですが、転校先でやはり私は引っ込み思案爆発で。友達を全く作れず、家が近所という理由で仲良くなった子とだけ過ごし、その子の広い交友関係について行くだけの毎日。(金魚のフン、と陰で言われていました。笑)

しかし、その子は少し、気に入らない、と感じるとそのまま行動に移すタイプの子で。ですが、振り返ると当時の私は私で承認欲求が強く、自慢しいなところがあったので、私自身にも間違いなく原因はありました。

とは言え、学校に行かないというのは親を心配させてしまうので、学校には行くように。
そのため、小学校に行っても過ごす場所は図書室が多く、元々本好きであったこともあり、ずっと本を読んで過ごしていました。短い間休憩でみんなが校庭に出ている時は、教室で絵を描いて過ごす。

そうして読書力と絵を描くスキルは磨かれていったのです。
家ではパソコンが好きで、独学でHTMLタグを使ったアフィリエイトサイトを作ったりしていました。

それと、当時の小学校の先生が私の心の支えにもなってくれました。だから小学卒業頃には「将来は教師になりたい」と思っていました。

悩んでいる人を助けたい、という今の想いの元はここにあったように思います。

そして私は、その子から逃げるように、中高一貫校への受験を決めました。結局それが私にとっては最初の大きな転機となったのです。そのため、小学校の頃の出来事は当時の私にとっては、「死」を考えるほどマイナスでも、その後の私にとってはプラスの出来事でした。(だから「全ては必然」だと思えるのです。)

様々な経験をさせてもらった中学時代

中高一貫校には無事合格し(と言っても作文と面接のみ。しかも最終的には抽選。笑)、私は一期生としてその中学校に入学しました。

色々と特色のあることもしていて、様々な経験をさせてもらった3年間でした。
友達もでき、徐々に引っ込み思案も克服していきました。

中でも貴重な経験をさせてもらったのは、総合的な学習の時間でした。「環境」「福祉」「国際」からテーマを選び、研究発表するというもので、私が選んだのは「環境」
(まさか大人になって仕事で「福祉」を選ぶとは思ってもいませんでした。)

環境を担当する理科の先生が論文の書き方や研究の仕方を教えてくれて、
プレゼンスキルや探究心はこの授業から培われてきた気がします。

さらにアクティブになった高校時代

そのまま高校に進んだ私。知的好奇心のまま様々なことに挑戦することはさらに加熱し。笑 

全国高校生集会に出席したり、JRC部の活動で他校のメンバーと福祉に関する勉強合宿のようなものに参加したり。(思えばこの頃から福祉には興味があったのだと思います。仕事にしようとは思いませんでしたが。)

ただ、いろいろなことを知る内に、どうして戦争が起きたり、世の中には苦しんでいる人がいるのだろうか。どうしたら世界は平和になるのだろうか。環境を守っていけるのか。

その頃から、「世界を平和にしたい」「世界を平和にすること」が私の人生のテーマとなっていたのです。

高3の文化祭・体育祭の時は、生徒会長(中学でも2期務めました)・バンド演奏・華道部・JRC部・応援団・・・と一人何役?のような状態で。

3のコピー

大学受験なんてそっちのけで、やりたいことをやって後悔しない!をモットーにやりきりました。
おかげで、いろいろなことを同時にこなすことや、やるからには全部100%やりきる!という精神は磨かれました。

さらにさらにアクティブな大学時代

私のアクティブさは大学時代に入ってさらに加熱します。

ちなみに大学には結局、AO入試で入学しました。(高校時代色々やってきたことが有り難くも活かされたのです。だから私は、今でも、「大学に行ってやりたいこと」がやりたいことなら、受験は頑張るべきだし、(私は大学に行くことは正直どちらでもよかったので、)部活とか、課外活動とか、「高校でやりたいこと」が本当にやりたいことなら、そっちを優先していい、と思っているし、子どもにもそれを伝えていきたいと思っています。)

そして大学でも、学生起業団体に所属して社会起業セミナーに参加したり(起業への思いはこの頃から強くありました)、運動系文化系サークルにいくつか所属したり、ラジオ・テレビの企画に参加したり、新聞社の人に企画を売り込んで、Webマガジンを書かせていただいたことも。在学中に始めた、小学生の環境教育のボランティアは就職してからも続けました。

4年間通じて、本当にいろいろなことを経験させてもらい、授業も、理系文系科目合わせて、卒業要件単位の1.4倍である180 単位以上を修めました。

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生活費や活動費を稼ぐためにバイトもかなり入れていて。花屋、お好み焼き屋、家庭教師、博物館スタッフ、引越しなどを並行でやっていた時期も。

(周りから、「いつ寝てるの?」と言われるようなライフスタイルは、今も昔も変わらず。笑 でも私は寝るのが大好きでロングスリーパーなので、逆に他の人よりも寝ていると思います。)

東日本大震災の教訓もあり、「何が起きてもどこにいても食べていける手に職」を求め続けていました。

就活時期には東京の企業のインターンに参加。(そして実はこのインターンが後々今のアロマ起業のきっかけとなるのです。

しかしその後、色々あり就活を辞めることにし、環境教育の学びを深めるために大学院を目指すことにしました。

そこで、大学院の授業費をなんとか稼ぎたい思いから、先輩に紹介してもらった、障がい者の入所施設でのアルバイトをすることに。(かなり割が良かったのです。)

そこで初めて、「福祉」を仕事にする、ということが、意外にも自分に合っていて、やりがいがあることだということを知ったのです。

卒論完成を間近に控えたある日、まだ”自分はこれ!”というものを見つけきれていない私は、このまま大学院に進んでも何もできない気がする、、と感じ、それならば人の役に立てることをしたい、と、「福祉」を仕事にするため、勢いでハローワークに飛び込みました。

そして卒業後は、地元の、障がいのある方の就労支援のお仕事をさせていただくことになりました。

就労支援と印刷の仕事

私が地元山口県に戻り、勤めたのは「就労支援B型事業所」。障がいを抱えた方など、一般就労が困難な方が作業をし、収入を得るための場所です。

私はそこで、元々のパソコンスキルを買っていただき、印刷の仕事を担当させていただくことになりました。デザインソフトの基本や版の組み方など、DTPに関する基本的な知識はそこで習得しました。

とは言え、メインのお仕事はあくまでも「支援員」。障がいがある方のそれぞれの能力や個性に合わせた支援もそこで学ばせていただきました。

障がいを抱えながらも、働く。その可能性をそこでは感じたし、そういうことに携われることの魅力を知ったのです。そのため働きながら社会福祉士の資格を取るための専門学校へ通信で通うことにしたのです。

退職、そして京都へ。

就職して3年目。私は大学一年生からお付き合いをさせて頂いていた、現在の旦那と入籍することに。

旦那は学年が一つ上で、そのまま大学院へ進んだのですが、卒業後は出身の京都府で教員の道に進むことになりました。勤めていた職場は大好きでしたが、旦那とはずっと一緒にいたいと思う相手だったので、迷いなく、付いていく、ということを決めました。

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勤め始めてずっと会話をしてくれなかった(基本的にどの職員さんとも話さない)利用者さんがいたのですが、勤めている間も、「私嫌われているのかなー・・・」と思ってました。

ですが、退職する時に頂いた色紙に、「〇〇さん(私の旧姓)、大好きです」と書いてくれていて、今まで自分が利用者さんに対して向き合ってやっていたことが認められた気がして嬉しかったです。

Webデザイナーとしてのスキルを磨く

京都へ移った私は、せっかく権利があるのならと、長年の趣味であったwebのプログラミングと、前職や個人でデザイン経験と、この機にきちんと学んで、webデザインを手に職することも考え、半年間職業訓練校に通いました。

しかし、元々腰痛持ちなのもあり、身体のことを考えると長く続けられる仕事ではないなと思い、結局資格を持っていた社会福祉士として就職先を探すことにしました。

ただ、結果として、その磨いたスキルが今の起業サポートにもかなり繋がっているので、私にとってデザインも一つのテーマだと思います。

社会福祉士として認知症施策に携わる

社会福祉士として勤めたのが、地域包括支援センター(高齢者の総合相談窓口)でした。海外からも視察がくるくらい、全国の中でも認知症施策の先進地で、ドクターと一緒に仕事をさせていただく機会も多く、その経験から、「認知症」になっても、本人も家族も自分らしく生きられる社会を実現したい、と思うようになりました。

フランス式アロマテラピーとの出会い

その後、妊娠出産を経て、一度は職場に戻ったのですが、家事育児をしながら通勤時間がかかる大変さともっと息子と一緒にいたいという思いが強くなり、結局地域包括支援センターをやめ、webデザイナーとして自宅近くの会社でパート勤務をすることになりました。

しかし、パートで収入が減ったことによる経済的な不安もあり、パート代の半分は保育料に消えていく状況・・・息子に我慢させてまで何のために働いているのか?このままだと良くない、何も変えられない・・・未来に対してまた迷い始めた頃に、

大学時代のインターンで出会った方の奥様(今の師匠)であるアロマの先生の記事を目にしました。(約8年の歳月経って芽が開いたご縁!)

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アロマで起業をすることは、

・自分と家族の、笑顔と健康と暮らしを守れる
・息子の選択肢を狭めない親であるために(経済的にも)
・認知症や障がいなど、これまで関わってきた社会的な課題を解決できる可能性がアロマにはある(環境問題に関しては植物の力を借りる以上、拮抗する部分もあるので、持続可能な方法を今後追求していきたい!)
・人の人生に関わることができる
・努力すれば結果が出る
・深めていくことができる知識である(学び続けられる)
・好きな時間に好きなものに囲まれて好きな音楽を流しながら働く、理想のワークスタイルが実現できる

と、これまでの人生と私が実現したいことと、ぴったりと重なる!と確信したのです。

そして覚悟を決め、私のアロマ起業の挑戦は始まりました。

そして、資格取得3日後にサービスが売れ、起業4ヶ月目で月商25万円以上、という結果を出すことができ、社会福祉士としての在り方を持ちつつ、Webデザインのスキルを起業サポートに活かすことができ、

本当にこれまでの人生、無駄なことは一つもなかった。と実感できる日々です。

長くなりましたが、私の30年間(あと5ヶ月ありますが・・・)の人生史でした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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